共同研究が地球規模で展開し、パンデミックによる急激な変化が研究界に消せない爪痕を残すなか、 研究の厳密さと誠実性はどのように捉えられているのでしょうか。
学術界でも社会全体でも、私たちは大きな変化に直面しています。より多くの研究成果がより早く発信されるようになり (プレプリントの普及による)、それに付随する査読プロセスにも変化が現れ、研究のインパクトと応用に関する優先事項も変わってきています。 これらの変化がとくに顕著なのは、現在進行中の健康危機に深く関わる生化学や医学の分野ですが、その他の学問領域でも同様です。 これらの変化に伴い、私たちは研究の信頼性に再び目を向け、さらに言うと、研究公正への取り組みを見直さなければなりません。
2020年から2022年にまで及ぶパンデミック時代のなか、高等教育機関やその関連企業では、実際的な研究業務や、リソース配分、 資金調達において多くの混乱が生じてきました。他方、研究活動を転換し、国境を越えて遠隔で共同研究に取り組むためのたぐいまれな契機にもなり、 研究の幅を広げるための過去10年間の大きな流れが加速しつつあります。そのような研究発表から得られる利益を最大化するために、大学は、 個々の研究者の自己規律と監視体制の問題、共同研究におけるオーサーシップの問題、公正を守るための国際的な倫理基準の設置、 研究開発を通したイノベーションなどの課題に対処しなければなりません。
ここでは、研究の透明性を高め、共同研究を推進するための取り組みについて、アジア太平洋地域での実践を見ていきましょう。
共同研究の価値レイ・ロバートソン=アンダーソン教授はInside Higher Edで「パンデミックが学術研究に悪影響を及ぼす一方で、 多くの研究者が研究を続けるために創造的な方法を見つけだした」と述べ、自分の実験室での作業ができないために、 海外の親切な研究者仲間に協力を求めたことを具体的に説明しています。その共同研究から、2つの出版物と、 さらに別の2つの研究プロジェクトが生み出され、研究資金の調達にもつながりました。このパンデミックで証明されたように、 デジタル時代においては、研究者や研究機関が国境と文化を越えてリソースや知見を有効に活用し、研究に役立てることができます。しかし、 そのような恩恵が、既存の研究環境に内在する実際的かつ構造的な諸課題と対立しているのです。
共同研究を推進するには、旧来の仕組みや規範に対処する必要があります。それらは、新たな価値観と合致するとは限りません。 オックスフォード大学のドロシー・ビショップ教授は、研究の改善に関する機会と現在の進捗状況を顧みて、「資金獲得と報酬のシステムは、 いまだに研究者がひとりで研究に取り組むことを暗に想定する傾向がある。しかし時代が変わり、互いに相補的なスキルを備え、 できれば複数の場所に拠点をもつグループで研究にのぞむことが、再現性と反復可能性のある研究を促進するのに適した方法であると認識すべきだ」 と述べています。
「パブリッシュ・オア・ペリッシュ(発表するか、それとも死か)」のプレッシャーをなんらかの形で抱える研究コミュニティにとって、 共同研究ではさまざまなスキルと名声、資金を活用できるので、研究を進めるための意志の強さと結束性が増します。それにより、 研究成果の量に固執するのではなく、質や重要性を重視できるようにもなるかもしれません。オーストラリア国立大学のロスリン・ プリンスリー博士は、前述のフレーズは今や、「コラボレーション・オア・クランブル(協働するか、それとも崩壊か)」という、 より適切な概念に変わってきていると述べています。
研究の商業化研究と公正の将来について考えるなら、共同研究のもうひとつの側面へ言及をしなければ不十分でしょう。それは、研究の商業化についてです。 産学協同の流れは昔からありましたが、パンデミックによる混乱で自社の収益源を再評価する企業により、再び活気を取り戻しつつあります。 産学協同の重要性は、名声や研究資金の獲得にとどまりません。そもそも、なぜ科学的な発見が求められるのかという、 学術研究の核心にも迫るものです。
ターンイットインのインタビュー動画 Integrity Mattersで、 学術界からバイオ医薬品のスタートアップ企業に転職したエスター・ゲン博士にインタビューをしました。ゲン博士は研究の商業化により、 科学がいかに社会の役に立つのかが可視化されることを説明してくれました。さらに、研究者が研究方法は習うが、 ビジネスは教わらないことのジレンマについて指摘し、研究者のためのより良い教育プログラムの必要性を訴えました。 実現可能な産学協同のチャンスの見極め方や、産業界やその他の関係者と自分の研究を結びつける方法を教えることが重要だと博士は述べています。
さらに、ロイヤルメルボルン工科大学(RMIT)のダニエル・バー博士とデイビッド・ブレイズ博士へのインタビューでは、 研究開発への取り組みに対する先進国と発展途上国の「非対称性」が、国境と文化を越えた共同研究を難しくしていることが指摘されています。 たとえばフィリピンでは、大学からのサポートが少なく、起業家としての能力が欠如していることが、産学協同が進まないことの主因としてあげられています。さいわい改善に向けて計画が進行中で、ASEAN 2025のブループリントにおいても、国家のイノベーションのために学術界と民間企業が連携するための戦略が記されています。
フィリピンとは真逆の例として、韓国の状況を見てみましょう。研究開発が国のGDPの4.5%(原稿執筆時) を占めるほど研究開発プログラムが高度に発達している韓国では、 2017年から2019年にかけて産業界から学術界へ転身した研究者の割合が71カ国中最多を記録しました。あるコメンテーターは、 この投資努力を「国家づくりのプロセスのなかでの、政府と産業界、学術界の緊密な連携」と説明しています。オーストラリア政府もこの戦略を真似たようで、 国内の大学と企業との強力な連携を支援するために、「経済の加速装置」として20億ドルの資金提供を最近発表しました。
共同研究やイノベーションが確かな社会の利益に結びつく可能性が高まり、期待がふくらむなか、信頼に足る、素晴らしい研究成果を出すには、 他に何が必要なのでしょうか。
研究公正の指針となる国際基準2009年、デイヴィッド・B・レスニック博士が「International Standards for Research Integrity: An Idea Whose Time has Come?(研究公正のための国際基準:その時がきたのか)」と題した論文を発表し、 国を越えた共同研究の指針となる国際的な基準の設置を提唱しました。博士によると、その主な利点は、オーサーシップや出版、 データ共有などに関して、指針となる原則を通して、研究者間で信頼関係を築けることです。「共同研究のなかで倫理的な論争が起きた場合、 研究者は共通の基準に頼ることができる」と述べています。
研究団体もこの流れへの支持を表明しています。イギリスとヨーロッパの研究公正のための組織がこれを推進するのを受け、アジア環太平洋研究公正ネットワーク (Asia Pacific Research Integrity Network: APRI)がつくられました。 このネットワークは、当該地域で研究アイデアや情報を交換するうえでの欠点を補うために2015年に設立されました。 設立の目的として研究不正の取り締まりも暗に示されていますが、前向きな研究公正を推進することが主眼となっています。「研究不正を、 完全になくすことはできなくとも、できるだけ起こりにくい環境をつくるための予防的なアプローチ」を目指しています。
APRIの3つの主目標は次のとおりです。
(1)相違点と共通点の明確化
(2)ベストプラクティスや推奨する実践の特定
(3)研究や連携の機会の発見
この機に乗じて、日本では2016年に公正研究推進協会(APRIN)が設立されました。その目的は、eラーニングなどを通して、 科学の発展のために世界的な研究倫理について意識を高め、国内の研究者や関係者を支援するためのリソースや相談サービスを提供することです。
研究公正の国際的な基準がないことが、APEC内での共同研究の障壁になっているとして、ダニエル・バー博士とポール・ テイラー博士は2017年に、責任ある研究に向けての共通原則づくりのプロジェクトを始めました。ガイドラインや教育リソースの整備と同様に、それを推進し、 頻繁に活用していくことを目指しています。
共同研究に内在するリスクを解消する研究と論文執筆の過程における研究者の「注意義務」が、責任ある研究を出版するための基礎となります。複数の著者がいることで、 研究プロジェクトの責任が複雑化・重層化するのは当然です。事実、近年の研究では、過去30年間でWeb of Scienceの主要コレクションから撤回された論文の約94%が複数の著者によるものであることが示されています。 オーサーシップの問題が明らかになるのは、論文投稿や出版という、遅めの段階であることが多く、 インパクトファクターのための慣例とヒエラルキーの産物であると言えます。
プリヤ・サタルカル博士とデイヴィッド・ショー博士による、科学と医学における研究公正に向けたPRISM(Perspectives on Research Integrity in Science and Medicine)プロジェクトでは、生命科学と医学分野の研究者の経験が示されています。それによると、 研究公正に対する過失で最も多いのが、論文内での「不正なオーサーシップ」に関わるものです。それは、「著者となるべき研究者を除外すること、 出版の可能性を高めるために当該分野の著名な研究者にゲストオーサーシップを与えること、著者リストの順番を、 研究への貢献度に従わず操作的に入れ換えること」と定義されるものです。
では、共同研究や共同執筆に内在する研究公正のリスクについて、研究者はどのように対策をとればいいのでしょうか。この質問を、 前述のIntegrity Mattersのインタビューでダニエル・バー博士とデイヴィッド・ブレイズ博士に尋ねてみました。その答えは、 学際的な研究プロジェクトの急増により、オーサーシップの性質が劇的に変化している現状を鑑みて、研究方法やデータの保管場所、 オーサーシップの割り当て、論文の投稿先について、あらかじめ合意を得て、透明性の高い研究実践を推進していくことが重要である、 というものでした。
しかし、研究者がプレッシャーのなかで正しい研究をするためには、個々人の自己責任にまかせるだけで十分なのでしょうか?
自己規律と監視のための独立機関従来、研究公正違反の疑いがある場合、その調査は所属する研究機関に委ねられてきました。そして、 大学レベルでの調査が上手くいかない場合は出版社に、さらに、その倫理違反が研究不正であると認められるほど深刻である場合は、 法令や規制団体が対処することになっていました。2010年代半ばより、それらの段階で生まれるギャップを埋め、 研究発表のプロセス全体を通して、すべての関係者間でより有効な監視と協議ができるよう、独立した体制がつくられるようになりました。
イギリスや日本、中国、カナダ、アメリカといった国々では、研究公正専門の全国的な組織が存在し、国家の優先事項や研究枠組みを反映して、 規制や諮問などの業務を行っています。東南アジアを代表するシンガポールでも、2019年にSIRION(Singapore Institutional Research Integrity Offices Network) と呼ばれる研究公正の専門機関が設立され、教育省と保健省が管轄しています。
バー博士とブレイズ博士は、研究に対する責任感を育成するためにルール中心主義から原則中心主義への転換を積極的に推進しています。 博士らは、取り締まりや罰則を強化するのに対して、研究公正への前向きで教育的なアプローチのほうが、より得るべきものが大きいと提案します。 では、両者のアプローチの釣り合いをとるには、どのようにすればいいのでしょうか。ひとつの可能性が、南オーストラリア大学の研究に示されています。その研究では、 研究公正を担保するためのツールを活用することで、研究者同士が互いに連携し、他者の文章を参考にして「意味を再構築し、 独自のアイデアを創造する」ことができると述べられています。
最後に、研究環境のなかで相反する利益が研究者を惑わす問題に対処する必要があります。ドロシー・ビショップ教授はこのことについて、 「非常に多くの若手研究者たちが、良い研究とキャリアの成功のあいだにズレがあると感じているということは、 体制に明らかな問題があるということだ」と述べ、研究公正を妨げる構造的な問題を解決する必要性を訴えています。今こそ、 研究公正を保持するために、研究者がそのライフサイクルのなかでどのように評価されて報いられるかを再考する転換点なのです。